2022-02-13カフェBAR&レストラン
海の美術館は、人知れず、ひっそりと油壷の海辺に佇むカフェ
冬の日に、夏を感じられたら。
春夏秋冬、いつでも海を感じていたい。その中でも、日本の冬の海が、特に好きだ。冬は太陽の恵み(ぬくもり)を一番ありがたく感じられる。そしてほとんど訪れる人もいない、静かな海辺を散策できる。
サラッと時間をつくって、風の穏やかな冬の日、よく海岸線を自転車で流し旅をする。そんな時、ふっと「夏かな?」と感じる一瞬がある。どこかノスタルジックで、よりシンボリックに感じられる夏……。
夏とは心を開放していく意識のスタイル。
「小春日和」という言葉があるけど、僕はこんな日を「小夏日和」と呼んでいるのです^^ 今回はそんな冬の日に、三浦半島を流していた時に見つけた、とある店の紹介です。
そして「店」というと、必ず脳裏を過ぎるのが、ギリシャの孤島で出会った店。それはまるでイメージの原石のように、いつでも明確な残像として心に焼き付いている。
その店の名前も主人の顔も覚えていないのだけど、半分崩れかかったような外観、壊れかかったイス、重厚なテーブル、強い光によって黒く塗りつぶされたようなその店から望む蒼い海だけが、心地いいイマージュとして残っている。
その日は島巡りで、とある小さな島に上陸した。観光客がみやげもの屋を目指すのを尻目に、僕だけどんどん先を歩いていた。
その町並み、道沿いにある店達の、ギリシャらしいシンプルで不思議なエキゾチックさが漂う光景を眺めつつ、とある丘の上まできた。そこに崩れかかったようにその店があった。BARのようだった。
一見朽ち果てているようでいて、でも何とも言えぬ郷愁をそそるその外観と小屋の中。ひっそりとしてはいるが、いちおう自然体で営業をしていた。
地元の客が一人ポツンと酒を飲んでいた。人がたくさん入らなければ店をやっていけないという「現実」は、ここでは皆無だった。
潮風に吹かれて佇み、呼吸するかのようにそのBARは「ただそこにあった」。。その空気感がとても良かった。そして、とても居心地のいい風が吹き抜けていた。
そこで1杯のウイスキーを気持良く飲んだ記憶が、僕の脳裏に鮮明な映像として残る事となった。
そんな店が、この日本のどこかにもあるのではという期待。いや絶対にあると確信しつつ、旅の目的の一つとして、探しながら、ブラリと日本を旅しているのかもしれない……。
「海の美術館」は、探していた店にピッタリだった。
その日は、三浦半島を油壺の方へ流していた。こうして海べりを丹念に「南下」しているのは、もちろん冬の潮風と陽光、黄昏が最高に気持ちいいという事以外に、実は「ある店」に出会いたいという気持ちもあるからだ。それはイメージの中に存在している店。
うるさい車が通る道路を隔ててではなく、歩いて海岸べりを下りた所にあり、海辺に開かれた別荘のようにひっそりと建っていて、オープンエアのほど良く可愛いらしいテラスがあり、ちょっとした魚や美味しいパスタぐらいが食べれて、ビールの旨そうな店。
余りすっきりとお店然とした感じではなく、そこの主人の生き様や生活観がにじみ出ているような、ある意味キッチュで雑然としていた方がいい。
テラスで潮風に吹かれながら、海に沈む夕陽を眺め、ジントニックを飲む。暗くなってきたら、さりげなくポッと小さな明かりが付き、夜でも残照の余韻でうっすらと灯火があたりを照らし、静かな海と対話する。
その後は気の利いたつまみを突つき、赤ワインを飲む。BGMは、潮風とミックスされたメロウなスタンダードナンバー。それが、しっとりと心に沁みる店だと最高だ。
実はそのイメージに 近い店があったのでした。油壷:旧マリンパークの手前を下った所「荒井浜海岸」に。店の名は、「海の美術館」。
しばらく、ぼ~っと海を眺め、最高に旨い「小夏日和」のビールを飲みながら、その店の主人に『僕はこういう店をずっと探していたのですよ!』と。
そして『何故ここのように、ビーチサイドに建っている店がほとんどないのでしょうかね?』と、
その主人に聞いたところ、こんな答えが帰ってきた。
『それは、海の家のような一時的なものは可能だけど、一般の店では水道の関係で町が許可を下ろさないからなんです。ここは例外で、元々公共の建物だったので、これができるんですよ』と。
な~るほど!
その日、夜遅くまで「見つけだせた喜び」を、その店で味わっていた……。
「海の美術館」フォトストーリー。
三浦の冬の日の海岸線は、その日、どこまでも穏やかだった。そこで見つけた店は、
最高に旨いビールを飲ませてくれた。
こんな店があったらというイメージが、
まさに形になっている。
店の名の「海の美術館」とは、
この油壷で見守る風景が、
そのまま「作品」たりうるからだろう。
その夜、ここで大いなる余韻に浸る。。