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2020-09-20ダイビング航海日誌

水の宝石。【翡翠(ヒスイ)の軌跡の中に】(ダイビングinメナド1995)


※メノーの断面は、島と珊瑚礁の関係に限りなく似ている。。
それは一枚のリーフの写真から始まった。

 

深い緑青色の貴石のような水。そこにシュノーケリングで人が浮かんでいる。
しかもコテージのすぐ目の前である。その色に全ての時間を溶け込ませたい、意識を丸ごとそこに投射させたいという本能が、この旅の出発点だったように思う。

 

7月のベストシーズンエリアを捜していて、ダイブ雑誌のバックナンバーを片っ端から見るにつけ、腹は決まった。
その写真のリーフグリーンの象徴的な色そのものが、その地から発信する何かしらのメッセージだったのかもしれない。目的地はインドネシアのメナド。

 


現実が想像を上回る事が、たまにある。

 

それは何と気持ちのいい事だろう。一言で言ってこの海の印象は、緑色のブラックオパールを真っ二つに砕き、その断面の素粒子のキラメキの中に包まれる感じと言っていい。

 

サンゴと水が織り成すアクアの色の競演は、珪酸の微細な球に光が乱反射して生ずる、オパールの虹色のキラメキに通ずる。

 


相似率。

 

例えば、地上の草花とそこに生息する蝶やハナムグリ達と、サンゴに群がる魚達との一致点を見い出せないだろうか。

 

過ぎ去った遠い日、子供心に夏を待ちわび、汗だくになって野山を駆け回っていた頃。
昆虫達の発散する純粋な造形美と神秘性にのめり込んでいった。
リンプンの妖艶な緑も、キチン質のシャープな黒も、薄羽の透き通った青も、何よりも貴重な驚きであった。

 

それは「夏」という特別な季節に、天から与えられた神聖な贈り物だったのかもしれない。

 

そして今、海という鉱脈の中にキラメク鮮やかな貴石達に出会う。
プラチナのように輝く幼魚の群が織り成すシルキーな映像に見入り、ブルーサファイアよりも貴重なソラスズメダイの舞いに酔い、全てのアクアマリンが集積しても及ばない、ドロップオフの青に浸る。

 


アクアの結晶をただじっと見続けていたい。

 

イギリスから来ていた旅人が、ただじっとそのリーフグリーンに見入っていた光景を思い出す。
ひたすら、じっとだ。ただそうやって一週間いるという。
シュノーケリング程度で、スキューバはやらないようだ。
彼らヨーロピアンは、世界中の辺境の至る所にいる。
ケニアでもニューギニアでもアマゾンでも地の果てでも、彼らは悠然とそこで「生活」している。そして、その場所の意味をひたすら問う。

 

中世から近代、そして現代に至る確固としたプロセスの中に漂いながら。
その「あぶくの表層のようなうすら寂しい現代」に埋没していない、その憂鬱ながら透き通った孤独に共鳴する。

 


時は流れ、時間が意識を供なう物質の連続体であることを告げる。

 

開け放たれたドア。木造のこれ以上簡素になれないであろう小屋。
その小屋から昼間という事も忘れ、しばし茫然とドアの外の光景に見入っていた。
暗く静かな影のような「内」と、明るい光に溢れる「外」と……。

 

「自分が今ここにいる。」という満ち足りた気持ちで、内と外の融解を楽しむ。
南の島の光と影は、表層の意識を少しずつ麻痺させ、次何をすべきかの明確な答を無意識のどこかに用意してくれる。

 


いつしか記憶のデジャブをたどり、小屋の存在を知る。

 

イメージの奥深くその小屋は形を変え、常に深い憧憬と共に「在った」気がする。
外の光にシルエットのように浮かぶ人。廃家のように簡素だが、存在感のある「内」。
そこで佇み沈思する人は実は自分であり、すでにその小屋の風景となって、記憶の中に定着していた。

 

明と暗がハッキリしているからこそ、あるいは、炎天下の太陽の下にいても、風があり水の浄化があるからこそ、頭の芯はすっきりと冴えている。
ただ「そこへ行く!」という何とシンプルな目的意識性だろう。
だからこそ船に乗っている時には、ただの一点のくもりもなく、あるがままの現実を受け入れる。

 


太陽の下で快適なガーデンテラスをもつ舟。

 

ボトム(水中)を潜り、サーフェス(水上)に漂よい、ウェットを脱ぎ、タバコを吸い、ゴロンと横になり、海に飛び込み、シュノーケリングをし、ウェットを着、またゴロンと潜り、ブーツを脱ぎ、アクアを飲み、クッキーをつまみ、会話をする。

 

まさに理想のスタイルがここにはある。ここには何か故郷に戻ってきた懐かしさを感じる。
そして、太陽と海と生き物達、そして月と星と仲間達、それ以外に何が必要なのか思い出せなかった……。

 

久しぶりに見るアメジストのように澄み渡った朝焼けのシーンも、暗闇に光るトパーズの輝きのように神秘的な月の出も、ダイヤモンドダストさながらの木上のホタルの鋭いキラメキも、島という鉱脈の貴石の結晶のように意識の深層に染み渡っていく。

 


見るべき対象の無限の数量を考えてみよう。

 

例えば、アラスカの頭上に輝くオーロラも、凍てつくバイカル湖の氷の亀裂がつくるシンフォニーも、エチオピア国境を走る大地溝帯の赤い湖も、トライしてみる価値はある。
あるいは、雲に閉ざされ「失われた台地」そのままのギアナ高地のエンゼルフォールも、蜃気楼のような街並のチュニジアの旧市街も、幾種もの極彩色の蝶が乱舞するマレーシアの奥地も、いつかは行かねばと思う魅力がある。

 

そして海で言えば、巨大なサメやクジラの流圧を感じる海域も、手つかずで夢のように横たわる未知の環礁も、特別な歴史性をもつ古代の遺跡のような海も、その内なる水の至高の贅沢を味わってみる価値はある。

 


小屋から出、朝のナナメの斜光の中をゆっくりと歩く。

 

鳥のさえずりと砂にうち上げられる波の音。じっと耳を澄ますと、木の葉を揺らす風の音がクッキリと聞こえる。ほんの僅かだが、「夏の成層圏」にハダシで立ってみる事ができる。

 

うっすらと朝焼けが差してくるイントロから、午前中の爽やかな陽ざし、カミュの正午、強くけだるい午後、そして刻一刻と光のパフォーマンスを繰り出す夕焼けのエンディングに至まで、島にいると光の表情の移り変わりをそっくりそのまま受け取る事ができる。

 


一日という日に内包される、自然の呼吸と色彩を感じ取ること。

 

一見地味なようでいて、ミヤコテングハギの意匠は、しばし見とれる程シックなファッション性を持つし、スパインチークのメスの黒ずんだ赤は、何か深違な色彩の妙味を感じる。
そして全ての魚の意匠がすぐれた機能性と造形美に根ざしている事も見逃さない。

 

今、鳥の中でも最も美しく貴重とされているカワセミの緑青色の羽の色を翡翠という異称でたとえるのならば、まさにその発見の軌跡の中を旅していくことだろう。

 

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